18 10月 2026 - 13:47
Source: ABNA
十代の若者を礼拝に惹きつけるには?

礼拝(サラート:イスラームの義務の儀礼的礼拝)を拒む十代の子どもへの対応は、家庭に共通する悩みの一つである。宗教専門家らは、教育的な行動規範(スィーラ)と、模倣対象の大権威(マルジャア・タクリード:信徒が法的見解に従うイスラーム法学の最高権威)のファトワー(イスラーム法学上の見解)に基づき、強要や押し付けだけでは何も解決せず、この分野の鍵は十代の心を神の愛と結びつけることにあると考えている。

Abna通信社の報道によると、今日、十代の若者が礼拝に関心を示さないことは、多くの家庭にとって深刻な悩みとなっている。親の宗教上の責務を理解し、適切な教育方法を取ることが、この課題を乗り越えるための道筋である。以下では、ホッジャトルエスラーム・タバータバーイーが、アーヤトッラー・ハーメネイー師のファトワーに基づき、この重要な問いに答える。

質問:
十三歳の娘がいますが、どれほど言い聞かせても礼拝を行わず、両親の言うことにも耳を貸しません。この件について、私たちの責務は何でしょうか。

ホッジャトルエスラーム・タバータバーイーは、この件に関するアーヤトッラー・ハーメネイー師のファトワーに言及し、次のように述べた。

この分野における親の第一の責務は「善を勧め悪を禁じること」(アムル・ビル=マアルーフ・ワ・ナフイ・アニル=ムンカル:正しい行いを促し、悪い行いを戒める義務)である。しかし、強く勧められるのは、愛情を通じて向き合い、お子さんを神の愛にいっそう親しませるよう努めることである。この点については、関係する専門家の助けを借りることもできる。

十代の心に神の愛の炎が灯れば、インシャーアッラー(神の御心ならば)、自然と礼拝を行うようになるだろう。しかし、必要な自覚と認識がなければ、どれほど強く求めても、心を込めた礼拝(フドゥール・アル=カルブ:礼拝中に心を神に向け切ること)を行わせることはできない。力ずくで行わせたとしても、その礼拝は心を伴ったものにはならない。

これに対し、人間の生来の本性(フィトラ)は神の愛を受け入れ、それを渇望するものであるから、その心に神への愛を灯すことができ、少なくとも私たちの力の及ぶ限り、慈愛に満ちたお姿で神を紹介できたなら、礼拝や断食(サウム:夜明けから日没までの飲食を断つ行)といった宗教的義務(ファラーイド)は、その子にとって非常に容易で、楽で、喜ばしいものとなるだろう。

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